幼少の頃〜オルガンがおもちゃ

しつけには厳しい両親だった。

自分の意思も言えなかった。

小児喘息で体力も気力もなく苦しい大変な日々を過ごす。

両親共稼ぎで優しい祖母に可愛がってもらい、寝床は祖父母の間で寝る。

弟は2階の両親の間で寝ているのが羨ましかった。

弟は二つ年下だった。

幼稚園の時歩いて、近くのカワイ音楽教室グループレッスンへ行くが、喘息で4回しか行けず、自宅にあるオルガンがおもちゃ代わりになって遊んでいた。

 

小学生

小児喘息も小4の頃から改善されてきて、小5小6と器楽合奏に入った。

自分のパートを練習したり、音楽室でみんなで合わせながらら、ふとピアノの音を素敵と敏感に反応し、感動した。

そのことで、ピアノを弾きたく、中学受験して合格して、購入してもらった。

 

自信がなく内向的

この歳まで欲しいものを欲しいと言えず、我慢してきた。

大きなわがままを言った時だった。

弟は遊んでいるのにテストで100点ばかりで頭が良く、私は自分に自信がなく、自己嫌悪、劣等感の塊で内向的だった。

 

中学

この頃から明るくなっていく。

小学校6年の時に、私自身意志が弱く、いじめに遭い、学区が違う中学校へ受験した。

環境を変えた。

母は就職に強い、商業科の高校へ行くことを望んだ

 

幻想即興曲

私はちびっこ達が好きだから、保育士や幼稚園の先生を目指し、練習。

中2の頃ショパンの幻想即興曲に感動し、絶対弾きたいと思う。

毎日3時間練習した。

中3で弾けた喜びで私は馬鹿ではなかったんだ。

やればできるんだと自信を持ち始めた。

中学校から文通を始め、三つ年上の男子校の彼(今の主人)。

真面目な優しい細かい気配りができる異性として、危険を感じないお兄ちゃん的存在で厳しい両親の生活の中に安らぎを感じた。

 

専門学校

名曲が弾きたい気持ちが加速し、カワイ音楽教室の講師になるため、専門学校を目指すことに決めた。

準備が整わず一回失敗。

専門的な先生につき、翌年再チャレンジで合格。

地元浜松では音楽の街と言っていることでピアノの先生はいっぱいいた。

 

講師生活

20歳でカワイ音楽教室の講師として稼働し、22歳で文通をしていた彼と結婚をする。

実家の母は、苦労したので私には苦労をさせないように、いつでも遊びに行ける次男を選んでとの希望だった 。

彼の家族は農家の両親と祖母もいた。

 

結婚生活

彼の妹は結婚して、兄は婿養子として結婚。

次男の彼が両親と祖母と同居となる。

私の両親は大反対したが、相手の家族と交流した後、最終的には本人同士だと認め、理解してくれた。

フレンドリーな主人の母で嫁姑というより、養女のように接してくれ、感謝している。

世話好きとか干渉が強い生活に入った。

22歳でカワイ音楽教室の講師を浜松から藤枝へ転入し、稼働することとなる。

 

子育て

1年間はその家族、地域に馴染むよう生活してから、24歳で長女出産した。

私という母親が分からないくらい、家族の手が多く、可愛い可愛いで愛情を注がれた。

長女出産後、9ヶ月経って左側の卵巣腫瘍の手術をする。

手術後も良好で27歳で次女を出産。

カワイ音楽教室稼働時間帯は、姑に娘たちを見てもらい、子育てのずれを感じ、歪みや摩擦状態が積み重なっていく

 

いじめ

次女が小学校四年の時にいじめにあい、不登校になりカワイ音楽教室で稼働していた仕事を辞め、家族一丸となって問題解決に取り組む

家族の力関係と配置の誤りの改善に集中した

小学校6年の頃には、女子友達のグループができ、登校できるようになった。

 

ピアノ教室

自宅生徒も少なく、外へパートの仕事に行きながら、口コミでの生徒募集のみで悩んでいた2008年

青木先生、保科先生のコーチングピアノレッスンの本を読んで、言葉や気持ちのキャッチボールを大切にレッスンに良いことを取り入れ始める

 

リトミック

生徒がダルクローズリトミックを受けていたので 私は一般的なリトミックとダルクローズリトミックの違いを知りたくて北大路範子先生のレッスンを受けた

エレメンタリー実技合格。

 

コンクール銅賞

他から引っ越してきた生徒さんがスパルタ先生に習っていて、コンクールでの勝負に暗く引きつっていた表情をしていた。

心身ともに凍りついていたのを和らげて、テクニックも表現力も両方のバランスが大切なので、引き継がれた責任もあり、温かくサポートして行った。

笑顔やコミュニケーションも増えたことで、小4の時にコンクール銅賞を取ることができた。

生徒さん自身の変化が見られた事に感動した 。

 

ピアノの生徒さん

講師時代に聴覚障害の生徒(小学2年)がを受けもった。

初めは、戸惑ったが、生徒さんは浜松の言語の教室に通っていた。

発表会がある為、私の教室へお母様も付き添ってのレッスンを行った。

普段 話している速さでは、言葉が理解できにくいため 口をしっかり大きく開けて ゆっくり話す。    

楽譜に ポイントや、ストーリーや、気持ちなど ヒントを書いてあげたりした。

生徒自身が音の間違いも分かり、悔しがり一生懸命弾く。

とにかく健聴者の普通が通用しない。

健聴者は耳があるのに使って無い。

浜松の言語の教室の先生(聴覚障害)が言語の教室の発表会で最後に演奏した「エリーゼのために」が 素晴らしく感動し、心臓に突き刺さった

気持ち、心で表現された演奏だった。

自分の演奏のお粗末さにショックを感じた。

気づきを与えてもらった時だった

 

カルチャースクールで知り合ったママ友の娘さん(小学4年)近くのピアノ教室に習っていたがイヤになって辞めてしまったらしく、何とか好きになって欲しいと母親の希望で、遠く離れている私の教室へ来てくれた。

先生から与えられたテキストしか弾いて無く、色んな曲を聴いたり弾いたり楽しめるレッスンが出来て無かったようだった。

ピアノやらないからと言っていた生徒が表情も明るくなり、思いっきり楽しんでレッスンに来ることが出来た。

中学になっても続けてくれて「モーツァルトのトルコ行進曲」が弾けるようになりレパートリー曲が出来たと親子で喜んでもらえた。

この時 お母様に 私は 楽しめてもらえたのが嬉しいし、娘さんの弾きたい名曲が見付かって それを完成させようと頑張った力が素晴らしいんですと伝えた